ロスチャイルド家の歴史と背景
HOMEユダヤ人としてのロスチャイルド > ウィーン分家、拘束

ウィーン分家、拘束

ユダヤ殲滅を目指したヒトラーの犠牲となったのは、ウィーン分家5代目当主のルイ・ナサニエル・ロスチャイルド男爵でした。1938年の3月、自宅でハーケンクロイツの兵隊に拘束されたルイは、警察の地下留置所に送致された後、ゲシュタポ刑務所の独房に移送されました。彼の保釈条件は、「オーストリア・ロスチャイルド家の土地や資産の全てを供出せよ」といった内容でした。その1年後、ようやく保釈されたルイはアメリカへ逃亡し、住処とした農場に引き籠ります。以後、彼が家業を再開することは二度とありませんでした。

フランスとともに、自由とは

第二次世界大戦中の1940年10月3日、フランスのヴィシー政権はある政令を出しました。その政令の主旨は、「ユダヤ人が士官・下士官になることを禁じるとともに、公職、出版、新聞、ラジオ、演劇、映画にかかわる職業からも排除する」といったものです。しかし、これだけに留まらず、“ユダヤ人の不適性職業”として新たに“銀行家”を追加。金融業者ロスチャイルド、失脚の瞬間です。このような時代錯誤としか言いようのない政策に絶望したパリ分家5代目当主のギーは、後に自由フランス軍に加わり、反ユダヤ勢力へ反撃を加えます。しかし、それでもなおユダヤ人に対する風当たりの強さは変わらず、ギーの母方の家族のほとんどがガス室で殺されてしまいました。